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ガッチャマンクラウズ感想用に作成 ほか好きなものや気になるもの

おもひ(-西尾維新と俺物語-).

 “人と人は完全には理解り合えない。人は人を完全に理解できるわけがない。そう思えるほどには僕はきみのことを考えたことがあるし、考え抜いてもきた。どこまででも理解しようと努めてきた。それこそ同化してしまうんじゃないというくらいに。それでも理解できないことがたくさんあったんだ。絶望したかって?まさか、その逆だよ。最後に残ったのは希望。そう、希望だった。理解しあえないからこそ、僕らは互いに存在価値を認めあうことができる。ぼくは君のことが理解できないからこそ、きみの事をよりはっきり感じることができる。そうは思わないかい?” 

西尾維新とか化物語とか、エンターテイメントにまつわるあれこれ。

 

 





 西尾維新の書く話は王道である。 


 気を衒ってはいるが蓋を開けてみればなんのことはない、よくある展開だったということが往々にしてある。それがファンが多い理由のひとつであり、アンチが多い理由のひとつであるとぼくは考えている。長々と引き伸ばしてくだらないオチしかない。時にはオチすらない。度し難いと考える人も多いだろう。 
 前もって明確にしておくと、ぼくは西尾維新を支持する立場をとる。彼のフリークとまではいかないにしろファンであるといえる程度には彼の書く物語に詳しく、生粋の信者であるとは言えないが、まわりには盲目的なファンであると思われているだろうことは想像に難くない。という程度には、彼の創る物語を愛好している。つまり「西尾維新」を好意的に評価している。そういう視点の人間がこの文章を綴っているということを頭の片隅に置いていておいて欲しい。 
 読者に新鮮さと驚きを与えるために紡がれているであろう(あるいは、自身が楽しむためのものなのであろう)軽やかな文体が、西尾氏の最大の特徴のひとつであろう。 
荒唐無稽な掛け合いの応酬に古今東西のオマージュが飛び交う。ウイットに富んだ表現があり、直喩があり暗喩があり隠喩があり、ありとあらゆる比喩表現が試みられる。 
 これらは本筋を描く為のためのウォーミングアップのようなものであって、ストーリーの核心を一直線に描くことへの一種の照れなのだと解釈している。おいおい、いきなり本題に入るのはちょっと急過ぎないか?と。そういきり立つなよ、まあまずは落ち着いて話してあってみようぜ?と、そういうことである。 

(中略) 

 とかなんとか理屈をこじつけようと、筋道を立ててしまおうと考えていたのだがどうにもうまくまとまらない事実に直面する。というのは登場人物があまりに記号的である、だとか、現実味がない、だとか、会話がただの文字数稼ぎに見える、だとか、そもそも会話しかない、その会話にも意味が無い、などど矢継ぎ早に浴びせかけられる批判の数々には正鵠を射てる部分も少なからずあり、真正面から否定しきれるものではない。 
(もちろん、すべて意味があるし、必要な描写であると僕は思っているのだけれど。) 
 つまり、減点方式で作品群を判断し、マイナス要素が少ないゆえ相対的な評価が高いということではない。しかし、かといって加点方式で作品群を好評価しているわけでもない。こういう要素があって好みだ、こういう要素もあって好みだ、さらにこういう要素もあって好みだ、といった具合に判断して氏の作品を評価しているわけではないからだ。では何なのかというと、それは彼の描く作品にしかない「なにか」が僕を惹きつけているのだろう、という考えに思い当たった。 
 では、その「なにか」とは何なのだろう? 

(中略) 

 相互理解という言葉がある。 
 お互い相容れない同士が戦いを通じて理解しあうとかいう、いわゆるアレでアレなやつである。漫画やアニメなどのフィクション作品においてさまざまな形のそれを観察することができる。また、現実においてはほとんど発生しないことで暗黙の了解が形成されている稀有な現象でもある。そして、物語における王道テーマのひとつと言っていいだろう。すでに明白であると思うが、西尾作品にはすべてこの「相互理解」のテーマが設定されているのである。 

 理解。他人が他人を理解する。あるいは、したつもりになる。自分が他者を理解したと認識する。他者が自分を理解したと認識する。その本質は誰かが誰かを本当に理解できたかどうかではなく、誰かが誰かを理解しようと努めることができるか?ということにある。真剣に、相手のことを思えるのか。互いに思いあう。想い。想いにめぐり逢う。逢う。それはつまるところ、相手を思いやれる人物同士が織り成すのコミュニケーションの話だということになる。 
 登場人物同士がお互いを完全に理解できずとも理解しようとはしている。相容れずとも認め合おうとはしている。現実にはめったにお目にかかることのできない、理想的なコミュニケーションが成される世界。それが西尾作品の中では、通奏低音として根底に流れている。氏の作品では、登場人物同士は相手を“気づかい”ながら会話している。相手に合わせた言葉を、適切な踏み込みで放つ。それはギリギリのところで相手に負荷を与えないよう計算されたものであり、あるいは負荷にならない程度の負荷を与えたりするためのものであったりする。一般的な、気疲れしてしまう意味でのきづかいではなく、それぞれがぞれぞれに考える最良の方法での“気づかい” 
 軽快な会話劇の中で形成されている絶妙な間や巧妙な駆け引きは相手への配慮から生まれている。そこには暗黙の了解として、両者は異質なものであり、自分と他者は違うものだと認識しているという背景がある。だからこそ、本当の意味で相手を理解しようとすることができるのだ。 
 そう考えて改めて見てみると、一見何の意味もないように思える会話や言葉遊びなどが相手を思いやる優しさで形成されているのだということに気付く。上述した“すべて意味があるし、必要な描写”というのはそういうニュアンスである。 
“誰かを思うということ”に関して、ぼくにとっての理想に近い世界観を提示してくる存在、それが西尾維新なのである。こと物語シリーズにおいてのそれはほとんど理想そのものといっても過言ではない。 


 少し話を逸らして、作品の価値というものについてすこし考えを巡らせてみる。エンターテイメントとしての、その価値について。つとに思うのだが、どのジャンルによって得られるものであっても、その情報的な価値に本質的な差異はないのだと思う。アニメ、ゲーム、音楽、漫画、ラノベ、同人、特撮。バトルも友情も恋愛も欝もスポ根もアイドルも不条理もギャグもSFもミステリーも…エロにもバイオレンスにもグロにもだ。求める人の欲求を満たすものが最上のエンターテイメントであり、最高の作品となりうる。その可能性を秘めている。かの人にとってもっとも足りないもの、補いたいもの…欲しているもの。その欲望こそが作品を至上のエンターテイメントたらしめる原材料であり、その思いこそが作品への評価に繋がっている。その意味においてあらゆる創作ジャンルには、質的な意味での優劣はない。いわばその人にとって自分の“物語”になり得る作品こそが至上であり、傑作であり、最高のエンターテイメント足りうるのだ。と僕は考える。 

 (…一般的にどう思われるかは別問題だけどね?ジャンプとかプ○キュアとか美少女ものとかエロゲとかが大好きでそれこそが俺の私の至上のエンターテイメントだ!って主張してどう思われるかまではわからないけどね?それこそ西尾維新が好きだ!化物語が好きだ!などど言ってしまえばその人の品性は底の知れたものとなり、感性の程度が如何ほどのものなのか自らを暴露しているようなものなのだけどね?) 
  
 ともあれ僕が物語シリーズに強く惹かれてしまうのは、羽川翼に惹かれるのは。彼女を描いた物語、猫物語に惹かれてしまうのは。 
 つまり、そういうことなのである。