「ラブライブ!サンシャイン!!」考察(仮)(12話までのネタバレを含みます)
唐突だが、「ラブライブ!サンシャイン!!」について、言いたいことがあふれ出してこぼれそうなのでチャオー♪&シャイニー☆した。
「みんなで叶える物語」から「みんなが叶える物語」へ
「ラブライブ!」の鮮やかな軌跡はアニメーション作品の枠を飛び越える。「μ’s」とそのキャストである彼女たちの活躍は驚きと賞賛をもって広く話題となった。相乗効果により多くのファンを生み出した彼女たちの輝きは瞬く間に広がり、多くの人を魅了した。「μ’s」の物語は、ある観点において僕らの物語であり、彼女たちの躍進は僕たちの喜びそのものであった。
対して、「ラブライブ!サンシャイン!!」では、「μ’s」に魅せられた僕たち、みんなが主人公である。高海千歌をはじめとする「Aqours」のメンバー。そして、「ラブライブ!」の視聴者である僕たち。ひとりひとりがそれぞれのステージで自分の人生を輝かせる。「みんな」が願いを叶える物語。それが「ラブライブ!サンシャイン!!」である。
高海千歌という存在 −「普通」を普遍化した少女−
今作品の主人公、高海千歌は「普通」である。それが彼女の最大の特徴であり、彼女が主人公である所以でもある。今作品は特別な誰かになりたいと願う、どこにでもいるような等身大の少女たちが主役を担う。「ラブライブ!」との明確な違いはその点にある。
それは彼女たちが僕たちの代弁者であるからだ。詳細は省くが、彼女たちは皆、等身大の悩みを背負って生きている。廃校を阻止するという大義は同じだが、その思いは極めて個人的なものである。自分の生き方を貫いて輝きを手にしたμ’s。しかし、高海千歌をはじめとする「Aqours」のメンバーは輝くために自身の在り方を見つめなおす。自分らしい生き方とは何か模索し始めるのだ。また、都会と田舎という舞台の違いも、対比構造において重要な点のひとつであろう。
演出面から見る「ラブライブ!サンシャイン!!」の特徴
映像表現において、物語の大事な局面に役者(登場人物)の表情を映し出すのは広く一般的な演出方法である。この原則は「ラブライブ!」でも適用されている。表情や仕草、目線の動きなどで多様な感情表現を行うことができるからであると推測される。画像は「ラブライブ!」二期12話より、ファイナルライブ直前のシーン。園田海未の視線が効果的に使われている。
一方、「ラブライブ!サンシャイン!!」では、重要なシーンに手の演技が多用されている。具体的には、本作のメインテーマのひとつである高海千歌と桜内梨子の関係性が構築される2話、及び、一層の結びつきを見せる10話、11話。海岸で「Aqours」のメンバーが確かな絆を感じる12話。いずれも彼女たちの手を象徴的なものとして描いている。役者そのものを表す「顔」を映し出すのではなく、記号性の高い「手」の演技を印象付けることにより、彼女たちの存在は半ば透明なものとなり、僕たち一人一人の姿を重ねあわせて観賞することが可能となる。11話で高く掲げられた高海千歌の右手は、同時に、僕たちがまだ見ぬ明日に掲げるであろう右手なのだ。
個人的な「ラブライブ!サンシャイン!!」の観賞ポイント
「境界線上のホライゾン」を手がけたサンライズ第8スタジオが、同作品で鮮烈な印象を残した加藤達也氏の劇伴を起用し、「普通」に過ぎない主人公が仲間との絆を胸に前に突き進んでいく姿を描く。これがリフレインし、実質的に「境界線上のホライゾンZero」とでも言うべき光景が目の前に広がっている。わかリ手の人、わかってくれ。
葵・トーリの主人公像と高海千歌。そして作品全体を通して描かれるテーマの類似性。確かな作画力が可能とする細やかなキャラクターの演技。第8スタジオが紡ぎだそうとする物語の力は、いつも視聴者に光を照らしてくれる。つまり、8スタ最高、ですわ!!
まとめ
「ラブライブ!」は「18人」のμ’sが織り成す物語でしたが、「ラブライブ!サンシャイン!!」は高海千歌をはじめとする「Aqours」のメンバーの物語であり、僕たち自身の物語でもある。そして、千歌梨子が神話となる物語である。
(この見解には個人差があります。尚、異教徒も認める)
*1:「ラブライブ!サンシャイン!!」12話より。「Aqours」はみんなで0から1へと進む
*2:「ラブライブ!サンシャイン!!」10話より。右が梨子ちゃんだよ
*4:「ラブライブ!サンシャイン!!」11話より。美しい
*5:「ラブライブ!サンシャイン!!」OPより。通称ことりカットイン
*6:「ラブライブ!サンシャイン!!」EDより。画像はイメージです